詠坂雄二『日入国常闇碑伝』(講談社ノベルス)内の出来事を時系列順にまとめました。
詠坂雄二『日入国常闇碑伝』は、作品内独自の時代や元号で時系列もややこしく感じます。そのうえ色々な登場人物、地名が独特の名称で出てきます。
今回のブログでは、作品全体(「舶来鬼」「事為得」「炎吹刀」「雨鉄炮」「英雄蠅」)を通しての年表を記載します。
元号が判明していない部分は、
常闇発生した年(白永三年)を基準に◯年、または大雑把な時代で括る、というように記載しています。
以前のブログの注釈は省いています。
以下ネタバレがありますので作品読了後にご確認ください。
この年表が再読の手助けとなることを願っています。
ー日入国建立前ー
【約三千年前】
●日入国(穂の天地)の歴史が始まる。
【約二千年以上前】
●ハを討伐し、日入国建立。
―百葉時代―
【常闇発生より二百年(以上)前】
●戦乱の時代(百葉時代)が始まる。
【百葉時代中期】
●鉄炮が伝来する。
(常闇発生五十年前)
●島海英山、神藤家に仕える。
(常闇発生五十年ほど前)
●神藤七宗生まれる。
【黒元元年まで(年代不明)】
●黒元三十六生まれる。その直後、祖父が戦死する。
●祖父の死後、黒元三十六の父が戦場に出る。
●父の出征から少し遅れて黒元三十六の初陣。
●数年後、父が戦死し、黒元三十六も戦地から退く。
●父の戦死後、時を経ず母が病死する。
●母の病死後、黒元三十六は弟に捕縛される。
●処刑前夜、黒元三十六は地下牢から出る。
●黒元三十六、祖国を離れる(のちに雪前に漂着)。
(常闇発生十七年前)
●守峰刀冶朗生まれる。
【黒元元年】(常闇発生十年前)
●黒元三十六、雪前の浜(漁村)に漂着する。(家臣に加わるふた月ほど前)
●神藤家と光氏との戦の最中。
●黒元三十六、神藤家臣に加わる。
●清海州では長く続いた宗教戦争が終熄へ向かい始める。
―常闇時代―
【白永三年】(常闇発生)
●秋:常闇が発生。百葉時代が終焉する。黒元三十六含む神藤軍のほとんどが常闇に呑み込まれる。梶折左右の一隊が命からがら常闇から脱出する。
●常闇発生直後、峰邑家は望巳隊を常闇に送る。その際生還したのは守峰刀冶朗のみ。
●刀冶朗生還直後:気病みとして牢に入れられる。
●刀冶朗生還二月後:牢より出る。守峰の姓を名乗り、峰邑家家臣となる。
●守峰刀冶朗、常闇発生時より常闇へ出入りしていた。
●常闇と共に生じた混乱の際に形女衆の放ち手たちはほとんど死亡した。
【白永六年】(常闇発生三年後)
●峰木光介生まれる。
【白永七年】(常闇発生四年後)
●春先:峰邑家に帝家の使者が訪れる。
北征近衞と斥候隊(頭は守峰刀冶朗)で常闇討伐(ハの討伐)に向かう。
【白永八年】(常闇発生五年後)
●御劔社建立、ほぼ同時期に闇払令布告。
【白永二十年】(常闇発生十七年後)
●夏のある日(①):守峰刀冶朗が炎吹刀『千二百十二番』を持ち帰る。
●①の翌日(②):闇佐が腹唐総衛門より、炎吹刀を調達するよう命じられる。
●②の約十日後:闇佐、佐藤炎吹と会う。その後妖魔退治へ行く。
●常闇で峰木光介の元服の儀が行われる。(※1)
【白永二十三年頃】(常闇発生二十年後)(※2)
●①の半年ほど前:放己が雨鉄炮退治に出、それきり帰らなくなる。
●①の数日前:闇佐は腹唐総衛門より目森へ向かい、村長の望みに与力せよと命じられる。
●①(朝):闇佐が村長の以来を受ける。その後闇佐、テナガ、カタメは砂州へ出発する。
●①の半日後(夕方):常闇に入る少し前で一泊する。
●①の翌日(昼前):常闇に入る。(②)
●②の四時間ほど後:山に入る。(③)
●③の後:谷底の村に到着し、放己と戦い、雨鉄炮を手に入れる。
【石冬四年】(常闇発生二十五年後)
●峰木光介、峰邑家剣術指南役になる。
【石冬六年】(常闇発生二十七年後)
●魚雨月末:守峰刀冶朗常闇にて死去。
●笹目月:常闇で群青具足の武者が遭遇する者を問答無用に切り捨てる。
●笹目月末頃:峰木光介、常闇奉行腹唐総衛門より群青具足の始末を命じられる。(①)
●①の二日後:峰木光介と白堂闇佐が八見戸場に到着。(②)
●②の翌日:午前、光介と闇佐が常闇に入る。夕刻頃、刀冶朗と対峙する。
【石冬八年】(常闇発生二十九年後)
●峰邑家は峰木光介を初代隊長として明暗隊を設ける。
(常闇発生半世紀以上後)
●常闇最奥部で明暗隊が黒元三十六と遭遇し、戦闘する(この年表をもとに考えると、峰木光介は明暗隊を率いて、黒元三十六と戦ったと考えられます)。
(常闇発生六十九年後)
●峰木光介、常闇にて自刃。享年六十七。
(常闇発生七十八年後)
●峰木光介の遺志を継いだ弟子たちが常闇払いに成功する。
ー常闇時代(年代不明)ー
●梶折左右、隠居後に『神藤覇記』を記す。
●常闇時代後半:明暗隊が活躍する。隊士全員が炎吹刀を帯びていた。
●常闇時代にのみ佐藤炎吹の記述が史料に出てくる。
ー常闇消失後ー
(常闇消失約十年後)
●テナガ、盛石城陥落と命運を共にする。
(常闇消失より一世紀以上のち)
●固翼艇が発明される。
(常闇時代より一世紀以上あと)
●レガリア人による雷汞を使用した雷管の発明と金属薬莢による弾薬の開発。
ー常闇消失後(年代不明)ー
●常闇最奥部は徹底的な清めが行われた。
●清菜幕府倒幕。
ー常闇消失後(現代)ー
●国立博物館で、黒元三十六の鍛鉄具足が一般公開されている。
●今日でも鼎の御劔は日入国各所の御劔社で鎮守されている。
●国立博物館に炎吹刀『打刀 佐藤炎吹千二番』が収蔵されている。
●近年、三護大学が炎吹刀を最新の機器で調査した。
●毎年夏季に雨鉄炮祭が行われる。
ー訳者後書内の年表ー
8世紀(701~800)は世界大戦の時代。
790年:ワーニー・アンサー生まれる。
808年頃:ワーニー、陸軍へ入隊。一兵卒として清州海戦争に参加する。
847年頃:訳者が『日入国常闇碑伝』の邦訳に取り掛かる。
訳者がワーニーへ手紙を送り返信がくる。
848年:邦訳『日入国常闇碑伝』単行本として刊行。この時点でワーニーは存命。
863年:邦訳『日入国常闇碑伝』新書として再刊行。この時点でワーニーは死去。
(※1)推測。詳細は以前のブログ「英雄蠅」#1をご確認ください。
(※2)新書版の年代を用いています。詳細は以前のブログ「雨鉄炮」#1をご確認ください。
コメントなどあればお気軽にお願いします。
ご覧いただきありがとうございました。
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